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「尺八音楽における噪音+楽音について」

志村 哲(ピリオド楽器研究家、地無し尺八吹奏家、大阪芸術大学教授)

※第2回定期公演プログラム掲載。紙面の関係で一部抜粋して掲載させて頂きましたが、全文を掲載させて頂きます。

 2020年、劇変した社会情勢によって、本公演は1年延期されました。2021年の本日、私達がここに集うことができたということは、少なくとも都市における尺八界におきましては、新しい活動様式の扉が開かれたと考え、お喜び申し上げます。

 私は、関西地方の大阪芸術大学で、教員・尺八研究者として活動する者です。そのような私でも、今月(5月)は浜松市楽器博物館で「地無し尺八」を用いたレクチャーコンサート、そして10月には東京の国立劇場で「日本音楽の流れIV<笛 尺八>」の公演予定を控えております。今後、日本中の邦楽愛好家が(そして世界中の尺八家も)一堂に会して、親密な交流が叶う「次のステージ」へ移行できることを祈るばかりです。

なぜ、このような話題から述べさせていただいているかと申しますと、本テーマについて、私がいま思うことのひとつの側面が、現状を反映すると考えるからです。

 ところで、私が当会の特別会員として与えられた役割は、学者として科学的視点を交えた解説ができることであったことを認識しております。ただし、これまでの様々な研究/教育活動の中で、こと「尺八」に関しましては、その初期段階から「実践的に学びたい」という思いが強くありました。そこで、私は、時代的にも音楽様式的にも多種多様な音楽種目を学んでみましたが、その過程で、なぜ、尺八奏者は「首を振るのか」どうして、尺八は「コロコロやカラカラ」が鳴るのかといった、演奏技法と楽器構造との関係に興味がわき、その先に尺八研究の道ができていきました。今、想えば、それは「噪音」の世界を探求する取り組みであったということなのかもしれません。

 ところで、伝統音楽のレパートリーと演奏様式は、各時代の社会情勢に対応して変化することで、生き延びていると考えます。また、歴史とは後の人が編んだ物語であると云えるでしょう。そこで、様々な解釈は、各人がそのどの局面に立たれているかで、重視する側面と、それに基づく見解は異なるように感じます。そこで、多様な文化、様々な歴史観が併存する現代社会において、尺八界を支えるすべての方のお考えに、ご納得いただける解説はできないと思っております。

 本解説は、多種多様なかたちで発展した「尺八楽」において、いま私が向き合っている地無し尺八(および作者)との対話から得られたイメージを、他ジャンルへも膨らませられるかの、手掛かりのようなものかもしれません。そこで、以下はひとつの見方であることをお断りしておきます。なお、これまでの知見と諸文献より根拠も探りながら、この大役を務めさせていただきます。

 

1.音に関わる用語の定義と認識について

まずこの度、用いられた用語の定義について共通認識を探ります。

『広辞苑第七版』(岩波書店2018発行)には、それぞれ次のように記されています。

 

楽音:①音楽に用いられる音。音楽の素材になる音。

   ②発音体が規則正しい振動をある時間継続し、そのため確実な音の高さがわかるような音。(後略)

噪音:①非楽音に同じ。②騒音に同じ。

 

とありますので、調べを進めますと、

 

非楽音:振動が不規則であったり、極めて短時間しか継続しなかったり、振動の変化が急速であったりして、特定の音高を定められない音。噪音。←→楽音。

騒音:さわがしくやかましい音。また、ある目的にとって不必要な音、障害になる音。

 

に行き着きます。では、我々にとって、このような解説は好ましいでしょうか。チラシの裏側に記されている、主催者のお考えになった問題提起について再考し、次に述べますことがまとまれば、出版社/編集者に訂正をお願いする選択肢もあり得るでしょう。

 私は、20世紀の後半に、日本音響学会の音環境談話会の幹事を担当したことがあり、サウンドスケープ/騒音公害について、音響学的な議論が為される現場で働きました。そこで、当時の見解が記された『新版 音響用語辞典』(日本音響学会編、コロナ社1988, 2003発行)を確認してみますと、

 

楽音合成:電子楽器や音楽の制作に使える要素となる音の信号を電気的な方法で生成すること。(後略)

 

とあり「楽音」単独の項目はありません。ちなみに、電子音楽/コンピュータ・ミュージックは、私のもうひとつの専門領域でしたが、特に邦楽器音については、いまだ「まったく納得がいく音響合成もサンプリングもできていない」という状況にあります。

 

噪音:一般的には、雑音と同義語であるが、三味線の撥音や尺八のムラ息、箏の摺り爪の音など、日本の楽器に現れる雑音的な音色に対して肯定的に使用する総称。西洋音楽の基準では音楽に適する音は雑音の少ない、いわゆる「楽音」であるが、日本を含めアジアには「楽音」とは別の音楽文化があり、西洋の基準からすれば「騒音」と呼ばれるような音を伝統的に生かしてきた。(全文引用)

騒音:望ましくない音。(中略)いかなる音でも、聞き手にとって不快な音、邪魔な音と受け取られると、その音は騒音となる。(後略)

雑音:①振幅、位相、周波数などが統計的に不規則に変動する音または振動。(中略)対応英語noiseは、雑音と騒音の両方の意味に使われるが、日本では、雑音と騒音は一般に区別して使われる。(後略)

 

 よって、音響学的には噪音と騒音は明確に区別されています。また事情によっては「音楽」も騒音に成り得るものであり、一方、噪音は英語にはできないアジア固有の概念であると取れます。そこで、英語で「噪音」について語る際には「noise」と呼ばずに「souon」を広めてはどうでしょうか。そして、やがては「souon」が、英語辞書に載ることになれば、英語文化圏の人々に、邦楽の音/音楽の特徴が、より深く理解された結果だということになるでしょう。

 ところで、本日、お集まりの皆様は、日頃、邦楽に慣れ親しんでおられる方が多いと拝察いたします。これまで私たちは、邦楽器と伝統音楽は在って当たり前という社会を謳歌してきました。また、我々は「楽音」も「噪音」も区別なく、邦楽の音として捉えてきたのではないでしょうか。たとえば『日本音楽大事典』(平凡社1989)や『邦楽百科事典』(音楽之友社1984)には、それらの用語について、単独の項目はありません。つまり、本来、これらはひとつの音なのであって、分けるべきではなく、かつ対峙するものでもなかったと考えられます。

ところが、明治以降の日本社会では、尺八をはじめ、邦楽器のほとんどは、学校教育、教員養成の両面に、重視されてきませんでした。私たちは、音楽生活の当初より、西洋音楽固有の「狭義での楽音」優位の音楽文化に慣れ親しんできたといえるでしょう。そこで、邦楽家は、扱うレパートリーを様々に変化させながら、その守備範囲を拡大してきました。そのなかには「噪音」を排除すべき曲種が多く存在し、演奏家、楽器製作者双方の努力の積み重ねによって、こんにちのような、いわゆる西洋音楽的な演奏能力が向上したと言えます。

ただ、我々は今、噪音の同居を肯定的に追求する日本固有の音楽様式と、現在の価値観に則った音楽表現のための解釈/演奏を、本当に両立できているでしょうか。そのことを考えるために、次に、現代人の耳と音環境について触れてみます。

 

2.都市の音楽と田舎の伝承

 私が学生時代から親しくさせていただいている中川真氏は、NHK TV「人間講座」(2001 年放送)のなかで、昔の人の聴き方は「遠・小」であったが、現代人は「近・大」であることを指摘しています。そうなってきたひとつの理由は、携帯型音楽プレーヤで音楽を聴く習慣と、コンミュニケーションや情報収集に携帯電話を用いる社会が定着したからだそうです。

 この考え方を尺八楽に適用してみますと、昔の尺八家は遠くの野山や自然界の音が聞こえる環境が日常であり、また生存を脅かす事件を、音環境の変化から察知していたということが想像できます。たとえば、鹿の遠吠えや鳥の羽ばたく音が聞こえたでしょうし、風や水の音、あるいは天候の変化や自然災害、疫病の蔓延や人の生死の前触れまでも、様々な音から感じ取っていたのではないかと思います。

民族音楽の諸要素が、環境要因と深く関わっていると仮定すれば、工業化、近代化が加速的に発展した時代より以前は、自然観が強く反映していたといえるでしょう。そう考えれば、尺八本曲の一部の楽曲には、生物や自然現象がリアルに描写される部分が組みこまれていることが納得できます。またそれは、生活圏を共にする人々の間で、イメージが共有されていたことでしょう。

 ここで、西洋クラシック音楽との違いを、伝承の仕掛けにみることもできます。五線譜は音そのものの量(高さや長さ)を記し、音響として抽象化されています。一方、古典邦楽は、口頭あるいは、楽器の操作方法で伝えますので、たとえ文字等による楽譜があったとしても、音楽として表されるイメージは、現物またはモデルとなっている対象(振舞いの音)に接するしか、会得する術はありません。まさに、自然界は噪音の宝庫であるわけで、尺八音楽はそれをフルに取り入れたのではないかとの想像が広がります。

 当協会、第1回定期公演のテーマ「鶴の巣籠」は「噪音」のオンパレードであることが知られていますが、これは演奏技術的に見れば、古典的尺八音楽の極みであるといえるでしょう。あるいは「噪音の世界に遊ぶ」という捉え方もできるかもしれません。

そこで「噪音」の役割についてまとめてみます。

噪音とは、楽器固有の特徴(材質と構造)によって、あらかじめ準備された音響特性/要素が、演奏の過程で、自然界に存在する音との近似を直感した結果としての意味づけがなされ、演奏者の内発的衝動によって誇張されたものである。そして、そのイメージは、地域毎に共有され、維持されてきた当該文化固有の表現様式である。といえないでしょうか。

 

3.西洋芸術と日本文化の違いは「無拍のリズム感」

 おわりに一言申し上げるとすれば、私は、日本に暮らしながら、西洋音楽環境出身の尺八家であることを自覚しています。だから、敢えてそこから出来るだけ遠くへ離れていきたいと念じてきました。尺八奏者はなぜ「首を振るのか」尺八はなぜ「コロ音」や「カラ音」出せるのかの答えは、ひとつでは無いわけですが、私の「明暗尺八」習得と実践活動のなかで、絶えず参照してきたものは、日本文化でいわれる「間(ま)」の問題です。それは「楔吹き」や「フリ」のタイミングにおける一音毎に生じるその場限りのリズムに集約されています。また、それは、時間を計るのではなく、噪音によって空間の性質を感じ、距離を詰めることであると感じます。それを武道の呼吸とも通じるとおっしゃる方もあります。また噪音には、日本の少し前の生活様式であった、和風建築や絹の着物での生活から生じる音にも似た心地よさがあります。

 一方、西洋音楽史上の20世紀前半、前衛的な新音楽様式の一端に「騒音音楽」という概念がありましたし、20世紀後半の「ノイズ・ミュージック」も先鋭的な魅力がありました。それより少し後におとずれた現代邦楽ブームにもまた、騒音の刺激的な側面が強調された「ムラ息」が多用される作品が見受けられました。それらは「騒音的である」と捉えられていたと言えるでしょう。現代においても、虚無僧尺八や都山流本曲の伝承者は、共通に「古典にはムラ息はない」と述べておられますので、尺八楽においては「噪音」と「騒音的ムラ息」は異なる音楽様式の奏法であると位置づけられます。

 伝統邦楽において、高品位な「噪音」が、遠くの小さい音に耳を傾ける感性と自然観によって生み出された、魅力的な側面であるとするならば、伝統邦楽の未来において、それがたとえ都市のコンサートホールが中心である場合でも「噪音=楽音」となるような工夫に注力することによって、世界中の音楽の中で、邦楽の伝統は高く評価されていくと私は信じます。

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